【外部脚本】政治をカジュアルに話せるということ(『桜の森の満開のあとで』についての雑文)

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こちらは、feblabo×シアターミラクルプロデュース「桜の森の満開のあとで」という作品の戯曲を書いたもの(つまりわたくし)による雑文的ななにかです。

 

政治をカジュアルに話せる、ということはどういうことなのだろう、とずっと考えています。

社会人になると、最初に教わるマナーの一つに「他人と宗教や政治の話をしてはいけない」と言うのがあります。このマナーについて、僕はかなり懐疑的でした。宗教というのはその人を構成する非常に重要な要素で、ナイーブでなものであると同時にその人の価値観そのものといってもいいはずです。
お互いの関係を、他人と自分は違うという前提のもと知っておくべきなのではないのでしょうか。ユダヤ教徒にクリスマスカードを送ることは失礼ですし、ヒンズー教徒やジャイナ教徒に肉食のレストランに誘えば、お互いに心苦しくなる。他人の信仰を尊重するというのは非常に大事なことのように思います。「宗教の話をする」=「他人の宗教に敬意を払えない」というのはなんともお粗末な話です。

同じように、政治を語ることがタブーというのも言いようのない違和感を感じていました。もちろん、僕もそれなりにサラリーマンをしていましたらから、ビジネスパートナーと他人を論争になるような話題をあえて選ぶことが決してプラスにならないことはわかっています。

しかし、その人の政治観というのは、そのままその人のがどう社会と関わりあっていきたいのかという姿勢と相似していないでしょうか。大なり小なり資本主義社会で商売をしていれば、他人=社会と繋がる必要があります。その時、その人がどんな形で社会とつながっていたいのかというのは、ビジネスにおいて非常に重要だと思うんです。

そう、政治とは生活なんですよね。僕には沖縄出身の友人が多くいますが、彼らには生活がかかっているから、政治=生活と簡単に認識できる。でも、例えば東京にいる私たちには「対岸の火事」を「こっちがわの岸辺に持ってきてくれるなよ」というのが本音じゃないでしょうか。つまり、まあ、他人事なわけです。他人事を自分のところに持ってきてほしくないわけです。

でも、僕はまあ、そんなスタンスの人とできる限り仕事をしたくないなぁ。もちろん、世界のすべての問題に心を痛めて対策を考えろなんてのは無理な話です。でも、自分にとってわからない問題に対しても持つべき、そしてそれを真摯に語る人がいたら耳を傾けるべき敬意というのがあるのではないかと思うんです。

だから、僕は、なんというか、昨今の居酒屋政治もなんか悪くないと思うんです。政治をつまみに酒やお茶を飲むって感じなんかすごくいいと思ってて。だって、繰り返しになっちゃうけど、政治=生活をどう考えてるかってことじゃないですか。

しかも、できるだけ若いうちがいいんじゃないのかなって思うんです。大人になると、いろいろな義理しがらみ仁義連帯保証人などあるじゃないですか。あんまり自分の心や身体が自由には動かしにくくなると思うんです。だから、その前に、せめて自分の心や身体がどこまで届くのかって考えてもいいんじゃないかしら。

 

というのがお話の一つ。脚本を書いていて、あるいは稽古の現場にいて感じることがもう一つ。

 

この作品に登場する役はほとんどが大学の学部生。演じる側も平均年齢26歳という若手の座組です。

戯曲には、ぱっと開いて「俳優が物語に奉仕しないと成立しない脚本」と「物語が俳優を助けてくれる脚本」っていうのを感じることがあります。でもそれは必要な成果を重ねていれば必ずいつか交わって逆になるので、なんだか「受けができる俳優」「発信する方が得意な俳優」みたいな本当に不毛でかつレベルの低い話なのですが。

才能とか適正とか努力とか時間とか色々なものが必要なのは百も承知で、戯曲に対しても観客に対してもど輝きを保ち続けるのは結構大変なものなのです。相応の技術や経験がいる。

でも、彼女ら彼らには今、ここにしかないっていう輝きがあって。
そんな輝きをピン止めしたいなって思ってこの脚本を書いています。

若いかもめ達のチャレンジをぜひご連絡ください。

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南慎介