【外部脚本・演出】大人と子供について(SAP 「春に戦ぐ」についての雑文)

 

僕たちはいつから自分が「大人になった」と思うのでしょうか。

 

Twitterでは成人式が近づくたびに「二十歳になって自動的に大人になるんじゃない。二十年生きたら大人になれって社会に言われてるんだ」といった種の画像が出回りますが、僕は二十歳になって自動的に大人になった気も、社会に言われてる気もしないまま、もっと言ってしまえば大人とはなにかもわからないまま、気づけば立派な大人の年齢になってしまいました。

 

これは僕のような社会を生き抜いていく上であらゆるテストや試験の類をできるだ受けずに来た人間でなくても同じ気持ちのようで、同窓会で出会った立派な社会人の同級生も「就職すれば大人になると思った」「子育ては大人がするもんだと思ったけど、子供が生まれても自分は大人の意識がなかった」なんていう話はそこら中で耳にします。

 

ただ、他人が大人になるのを随分と見送ったような気がします。ここからここが子供でここからここが大人、みたいな境界線はなくても気がついたら川の向こうに渡っていた。そんな感覚です。向こう岸は遠いか、といえば実は遠くない。大声を出せば届くし、ふとしたときに帰ってくることだってできる。だけど、例え川を渡ったとしても元いた場所に帰るたびには必ず腰の高さまで濡れないといけない。それに無自覚ではいられない。そんな川の向こうにゆっくりと、だけどきちんと踏み出していったやつ、または踏み出していったことに気がついてしまったやつの後ろ姿を随分と見送りました。

 

「春に戦ぐ」は保育士のお話です。必然的に子供と大人の話になりました。この物語と旅をしてきて思うのは、大人とはなんだろう、子供とはなんだろう、ということです。大人はよく分からない、と先ほど書きました。それでは子供は?私は幾分か先ほどより明確に提示することができます。

「子供とは守られるべき存在である」

それでは大人は?子供と対称の位置にあるとすれば「大人は子供を守る存在である」と言えます。それではいつ人は大人になるんでしょうか。

 

社会学的に言えば(まったく不勉強ですが、僕は社会学科の出身です)子供文化と大人文化の間には青年文化とでも言うべきマージナルな領域があって、まるでそのトンネルを抜けたらそこは雪国だった、かのように大人になっていくように感じます。

 

しかし、僕は今子供と大人の世界は交じり合っているのではないかと考えています。身体的に、情緒的に、社会的に少しずつ「守られるべき存在」から「守るべき存在」へと変わっていく。これ一つが大人になったから大人になるものではなく、大人になったものが自分の過半数を超えたとき(あるいは自覚できたとき)、人は大人になるのではないか、とここまで文章を書きなぐって一人納得しています。

 

つまり、僕の中の子供の部分はいつまでも子供のまま、きっと自分の命が尽きるその瞬間まで子供のままなのでしょう。あるいは、大人になった部分は法的なものや自分の自覚よりはるかに早く大人になっているのだ。僕の中では大人と子供は常に一緒に生きているし、それは誰かとも繋がっているんだろう。

 

だから、僕たちはきっと子供に自分の思いを一生懸命伝えるし、守るし、子供から沢山のことを教えてもらうんだろう。

 

この作品を創る際に沢山の方に協力していただきました。その多くの方々が、「保育士は子供に教えもらって成長する」という一見矛盾したことをおっしゃっていて、ずっと考え続けていました。これが僕なりのアンサーだし、「春に戦ぐ」もそんな作品になっていると思います。

 

是非劇場まで足をお運びください。

(詳細はこちら

(ご予約はこちら

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です